ビボウロク

忘れること、忘れられることへ備え。

人生はゲームか

 「人生はゲームだ」

 この言葉が今朝はやけに頭に残る。

 人生とゲームの共通点は何だろう。ある時点から物語がスタートし、ゲームを進めると主人公たる自分の文脈が明らかになり、目標に向かって進んでいく。そのために限られた資源を利用し、経験値を積むことで少しずつ生き抜く力がついていく。

 人生とゲームの相違点は何だろう。リトライがあるかないかだろうか。確かに死をゲームオーバーと考えるなら、リトライは存在しえない。しかし、ゲームオーバーをミクロに捉えていけば、種々の失敗や、あるいは1日の終わりがゲームオーバーかもしれない。そう考えると人生もリトライは可能だ。

 ゲームが「お遊び」であると考える人も多いだろう。しかし、ゲームを行う人の真剣さ、本気さを見れば、それが単なる遊戯や道楽以上のものを有しているのは明らかだ。

 人生をゲームであると俯瞰する視点も生き抜くには必要だろうと考えて、改めて言おう。

 「人生はゲームだ」

 

 ところで、この文章書きながらふとこんなゲームはないかと思った。たとえば、ある人物で物語をプレイする。その人物が死ぬと、同じ人物でプレイはできない。しかし、その人物の時点で得た経験値や情報は、ある程度次のプレイヤーキャラに引き継がれる。そうして少しずつ経験値や叡智を繋いでいく。そうして目標、これが何かはわからないが、に少しずつ近づいていく。そのように受け継がれる何かを人は魂と呼んだのかもしれない。

ミライの未来を観たみたい

 細田守監督作品「ミライの未来」を土曜日に観てきました。映画を観て、そのまま中華を食べるというのがお決まりになりつつあるルーティンなのですが、食べながら色々思い返している時間も楽しいですね。

(以下、ネタバレ含む)

続きを読む

活龍

 6月10日、活龍水戸店へ初めて行ってみました。
開店前に車で着きましたが、早く着くと事前にメニューをもらって注文をできる模様?開店直前だったので私は店に入ってからの注文でした。

 頼んだのはまぜそば。にんにくチップも入れたかったですが、午後に用事のため断念。太めの麺とタレがよくからみ、煮干し粉の香りもよいアクセントでした。

 活龍本店には行ったことがないのですが、系列店にはいくつか行ったことがあります。茨城県南中心の展開でしたが、今後県全体に展開してくれると嬉しいです。

 

f:id:shushulala-ra:20180610092019j:plain

啓発と啓蒙

 自己啓発ものの本は今日も書店に並ぶ。いつの世も「よく生きたい」という人の欲求はあるものなのだろう。通底するものは似ていて、だったら古典を読んだ方がと思う時もあるが、目新しさや時代に合った読みやすさなどの当意即妙な部分は啓発本の勝るところ。

 

 啓発、という言葉の語源は論語のようだ。『論語』述而編の

 「憤せずんば啓せず 悱せずんば発せず」

という一節から来ている。手持ちに論語がないのでサイトに頼ると、「後一歩の状態まで自分で頑張った者でなければ、教え導かない。頭で解っているのだが旨く答えられない者でなければ、助けの言葉を発してやらない。」(100万人の心の緑化作戦)とのこと。
 この言葉には教え導く立場からの考えが込められている。教育が一番の効果を示すのは、本人が成長を望んでいて努力をしているとき。当たり前であるが、何から何まで教師がお膳立てしているときに、生徒は受動的な存在でありそこに成長はない。「ここまで来たらこう教える」という足場かけは、本人が歩いてこそ効果がある。

 

 一方で、啓蒙という言葉もある。こちらは欧米由来の言葉である。訓読すると「蒙(くら)きを啓(ひら)く」、無知でくらい人々を理性の光で照らすことによりひらいていこうという思想である。英語ではenlightment、光lightに「-化する」というenがついている。
 こちらが前提としているのは、人は教育なしには無知でくらいものである、という人間観ではないだろうか。その限りでの人間は、自力では十分に理性を発揮することができないものである。だからこそ啓蒙によりあかるくする必要があった。

 

 現在、啓発は自己啓発として使われている。とすると、論語本来の意味にも近いように思う。一方、啓蒙という言葉は啓蒙活動という形で、たとえば人権などで正しい知識を広めようという活動と合致している。似てはいるが由来の違う言葉が共存している。日本は面白い。

 

追われるもの、追うもの

 再開してからまったく更新できていないことに今気づいた。僕は追われていた。新しい仕事場での日々に、仕事に。

 日々に追われる、とはどういうことなんだろう。人の心の都合はお構い無しに、朝は日が昇り、夕には日が沈み、夜に星が瞬く。朝日に急かされるように出かけては仕事をし、夕闇に勝てなくなっては家に帰る。朝よ来い、夜よ来いなどを追いかけることはなく、明かりの変化に追われるように日々が過ぎていった。

 僕は何かを追いかけているだろうか。テレビではお笑い芸人が笑いを追究している。音楽家は世界を表現する音を追い求めている。僕には何か追うものがあるだろうか。僕は何かを追うものになれるだろうか。死ぬまでにしたいこと、見たい景色、聞きたい音楽、嗅ぎたい匂い。それらがあいまって、生きる意味になればいい。追われるものから追うものへ、そこに存在の意義があるのだろう。